自分を信じてくれる人がいる、ということ。
自信がなく、自己肯定感や自己効力感が低い。
自分を好きになることが出来ず、
いつも自分を信じることが出来ず、行動できない。
そんな自分を振り返って、また自分が嫌になる。
悪循環に陥る。
はーい。はいはい。私もそうでした。
でも今は、そこまで自分が嫌いじゃありません。
何が転機になったのか。
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私の場合はITP(特発生血小板減少性紫斑病)発症を機に、生活のあらゆる場面で母の禁止文句が増えました。
「危ないからやめなさい」
「あんたは無理」
「とにかく何もしないで大人しくしていて」
「心配させないで。余計な仕事を増やさないで」
風邪を引いた時も「この忙しい時に何なの」と毎回怒られたので、母の前では必死にクシャミも咳も堪えて元気な素振りをしていました。
(私の場合、発熱すると血小板の値が悪くなるので母は私の風邪に敏感でした。年中無休で仕事の休めない母にとっては、何かあっても私をすぐに病院に連れて行けないのではないかという不安でいっぱいだったのです)
母なりの愛情表現であり、我が子を心配すればこそであり、風邪の時はいつも以上に手厚く世話をしてくれました。彼女の育児状況、当時の多忙な状況を振り返れば愚痴も文句も言いたくなる、仕方なかった言葉だったとは思います。
でも、好奇心が強くお転婆だった8歳の子どもにとっては、こういう言葉のシャワーを浴びるうちに、あたかも自分が欠陥品でお荷物であるかのような気持が芽生えていったのも事実でした。
そしてやっと学校に行けるようになっても、当分は体育はドクターストップ。
衝突や内出血の危険性が少ないランニングのみOKが出たので朝礼前のランニングは張り切って頑張りましたが、ランニングはしてるし元気そうなのに(内部疾患は傍からはわからないので)体育はずっと見学している私を訝しく思う(ずるいと思ってた)同級生もいたんじゃないかなと思います。
そして希少疾患だから仕方ないのですが、病気について良く分からないが故に「何かあっては責任が取れない」と腫れ物に触るように私に接する先生たちも。
ある時、友達とふざけ合っていて私がその子の頭を軽く叩き、その子も私の頭を軽く叩いたことがありました。私が叩かれた場面だけを見ていたのか、先生がすっ飛んできて友達だけを叱ったんです。。「病気があるんだから叩いちゃダメでしょう?!」と。
ふざけて先に叩いたのは私だったのに。
その子が叱られるなら、私も叱られるべきだったのに。
弁解しようとしても聞いてもらえず、その子も納得のいかない不満げな顔をして去ってしまいました。それ以来、その子とはギクシャクしたことを覚えています。
その子への申し訳なさと同時に、
「やっぱり私はみんなと違うんだ」「私は何もしちゃいけなかったんだ」と悲しくなりました。
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中学からは中高一貫校に進みました。
ITPは残念ながら慢性とのことで一生付き合っていくことになりましたが、その頃には血小板の数値もだいぶ安定し、ずっと運動を我慢していたので思い切ってダンス部に入部しました。(ダンスなら出血することないんじゃない!?と思ったことと、安室ちゃんに憧れてw)担当医も、OKを出してくれました。
でも実はその学校で一、二を争う程のスパルタ部活で、母を悩ませることになります(笑)
私はやっと運動できる喜びで夢中で部活に励み、褒めても頂き、大会の選抜メンバーにも多く選んでいただきました。練習終わりに気が抜けてうっかり階段踏み外して靭帯切ってギブス生活したりもしながら(笑)毎日充実していましたが、やはり母は心配で堪らなかったようです。毎朝部活を辞める辞めないで喧嘩しました。
中学3年生になって、もう母と毎朝喧嘩するのも疲れたし、体力は増して数値も更に安定してきたものの、正直、昭和さながらの激しい練習に今後もついていけるか不安になっていました。そして何より高校に上がれば部を牽引していかなくてはいけない立場になるのに、自分にまったく自信が持てなかった。後輩に指導する自分なんて想像もできなかった。
考えて考えて、でも半ば逃げるように部活顧問の先生に退部届を出しに行きました。
が。
退部届を出すも、1回目は先生に見向きもされず素通りで終了(爆)。
2回目も、「考え直しなさい」の一言で終了(爆)。
3回目でやっと、「…本当にいいの?」と相談に乗ってくださった先生。
先生は深くため息をついて、実はね…、と話してくださいました。
それは、毎朝といっていいほど母が先生に、私を退部させるように、せめて選抜メンバーに入れないようにと電話で懇願(苦情でなかったことを祈ります…)していたということ。
でも、先生はその都度「本人が決めることですから」と断ってくれていたのです。
教師として生徒の保護者に対してNoを言い続けることは、相応の意志が必要なことだと思います。
それでも先生は盾になって、私の意志を尊重して、可能性を信じて、私が自由にやりたいことをやれるように守ってくれたのでした。
あーーー、思い出すだけで今でも泣けてきます(笑)。
本当にうれしかった。
でもこの話を初めて聞いた時、驚きすぎて申し訳なさ過ぎて、言葉も出ませんでした。
先生は「部員はやめてもいいから、コーチの補助としてダンス指導だけやらない?」とも誘ってくださり心が揺れたのですが、どうしても自分にまったくの自信がなかった当時は、部員ですらなくなるのにコーチ面して後輩指導するなんて烏滸がましく感じてしまい、「そんなこと、私には無理です…」と有難い提案も受けることが出来ず、若干混乱もしていて、逃げるように職員室を立ち去りました。
(卒業後何年かして先生に再会でき、直接当時のお礼を伝えることが出来ました)
この出来事以来、私は自分の価値について考えるようになった気がします。
「自分なんて欠陥品で、人に迷惑かけないように何もしないことが一番なんだ」
という自己認識から、
「私の成長を期待して、陰で私の希望や可能性を信じて守ってくれていた人がいた」という大発見。
「そう思ってもらえる、守ってもらえるに足る私」を初めて発見した気持ちで、その後も紆余曲折はありましたが、同じように私を信じて支えてくださった方々に出会えたおかげで、少しずつ少しずつ、自分を肯定的に見ることができるようになってきたと思います。
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長くなりましたが、「自分の意志を尊重して可能性を信じてくれる人がいる」という発見は、その人の自尊心や自己効力感に大きな影響を与えてくれます。
少なくとも、私の場合はそうでした。
特に、持病や障がいなどがあるお子さんへの声掛けは、心配な気持ちが先行して禁止言葉も増えてしまうでしょう。
でも、その子にも出来ることがある。
出来なくたって、挑戦したいことがある。
失敗する経験も、そこから試行錯誤してまた挑戦する機会も、自分を恃む心を育むために大事なことです。(もちろん治療などの制約の中で、かもしれませんが)
いいよ、やってごらん!ちゃんと見ててあげるから。
と、尊重して背中を押して信じて見守れる大人でありたい。
1人の大人としても、親としても、キャリア支援者としても、今後保育者になったとしても、
大切に、持ち続けていきたい想いです。
(でも、個人的にはやっぱり「親として」というのがなかなか難しい…。後日また書きます)
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今回は、自分の原体験から「自信の無さ」をテーマに振り返りましたが、
次回は「自信の無さの根源」について、これまでのキャリア支援の仕事現場から感じたことを付け足しながら補足したいと思います。
最後までお読み頂きありがとうございました。
では、また!