よもやまばなし

どうでもいいこと綴ります

枯れども花

先日、思い立って花を一輪買いに行った。

 

DAISOで買った108円の一輪挿しをアクリル絵の具で塗り直したら思いの外リビングにマッチしたので、久しぶりに娘の好きなバラでも買おうと思ったのだ。

 

花屋に入るのはいつぶりだろう。

私は植物は好きだが、ズボラなのですぐに水やりを忘れて、早いうちに枯らしてしまう。。花に申し訳なくてあまり自分では買わない。

それに、正直、花屋にはペットショップと似た「居心地の悪さ」も感じる。考えすぎと言われるかもしれないが、生体販売という意味では、なんだか気軽な気持ちになれないのだ。

 

本当はまた造花でいいかと思っていた。実際、リビングにいくつか飾ってある。

でもやっぱり生花とは比べ物にならない。

一輪だけなら、いいかな。

 

久しぶりの花屋で色とりどりに咲き誇る花たちは、とても綺麗だった。

 

やはり娘の希望通りバラにしよう。

色は、私の好きな黄色かな。

 

店員さんに頼むと、無造作に黄色いバラをバケツから一本手に取り私に見せた。「じゃあこれで」と私が言うと、改めて花を確認し、一瞬躊躇ってから、私にこう訊いた。

 

「他のものにお取り替えしましょうか…?」

 

よく見ると、花びらが萎れて無数の皺や茶色い傷がついている。それでも、鮮やかで優しい表情のバラだった。

 

一瞬、私は、その萎れた花びらの無数の皺に見惚れた。

 

「いえ、これで」

 

私はそう答えた。

 

***

 

少し前に、萎れて売れものにならない植物を廃棄される前に引き取ってケアし、地域住民に安く提供する団体の記事を、何かで見た事がある。

 

萎れた花は、買い手がいなければ破棄される。植物は人を求めてもないのに人は植物を求めていて、花たちは勝手に摘み取られて、勝手に売られて、勝手な線引きで捨てられる。

 

ふと、そんなことを思い出した。

あの時私が買わずにいたら、次に誰が買うだろうか、とも。

 

でも、それ以上にこの黄色いバラの皺や傷が綺麗だと思った。

 

傷を受けながらも水を吸い上げ、背筋をピンと伸ばし、顔を上げて咲いている。

なんて美しい。

 

蕾や咲き始めの瑞々しさとは対照的な、

老いて朽ちていく過程で刻まれる皺や傷。

 

失われた瑞々しさを潔く手放して、

今持てる力を全て出して咲いている。

 

おばあちゃんになっても

こんな風に生きていきたいし、

誰かの傷や皺を大切にできる人でいたい。

 

なんて思った。

 

 

これまで、私にとっての花は、申し訳ないことに「いつの間にか」ひっそりと枯れていた。

 

これからは、この花が枯れて朽ちていくまで、しっかりお世話できる気がする。

 

我が家の黄色いバラは、今日も静かに凛として、リビングに一人佇んでくれています。

 

 

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