余白という受容
昨年、娘が幼稚園で描いた絵。
「何を描いたの?」と訊くと、
「うみ」とか「ラプンツェルのかみ」とか答えてくれますが、いつも曖昧(笑)
子どもは何を描くか目的を持たずに描いたりもするので、こちらも敢えて規定せずに眺めてます。
それにしても、子どもの絵も額に入れると、
それなりになかなか現代アートっぽくなる不思議。(←ただの親バカ笑)
現代アートといえば、
私にはいつも思い出す絵があります。
私が慢性のITP(特発生血小板減少性紫斑病)という病気にかかり入院を経て、実家近くの大学病院に通院し始めた頃のこと。小学生でした。(ITPについてはまた追々書くかも)
当時、院内の2階外来受付から3階へ登る階段近くの壁に、1枚の巨大な絵が掛けられていて。
真っ白なカンバスの右端に、ちょん。と黒く太い線が1本。
99.9%が、真っ白な絵。
これなに??絵?
あの黒いの汚れじゃないよね?(相当失礼)
あの白って、白を塗っているのかな。カンバスのままかな。
いくらするんだろう。
いや、この壁に掛けられてるくらいだからきっとめっちゃ高そう。絶対高い。
どういう意味なんだろ。何を表してるんだろ。
あの白いとこもったいなくない??何か描けばいいのに。
ていうかアレなら私にも描ける(やっぱり失礼)
でも・・・なんか毎回じっと見ちゃうんだよなー。
私はいつも3階には用がなかったけれど、ちょうど2階から1階へ降る時にも見える位置にあったので、あの絵を見るたびに、そんなことを考えてました。
今になって、作者や作品名を調べてみようと記憶を呼び起こし検索してもヒットせず。
でも、同時に思ったんです。
あの絵のあの巨大な余白に、救われた人もいたのかな、と。
診察室で思いがけない病名を突然宣告されたり、
検査や診察で病状の悪化が分かったり、
もしくは快復したよ異常ないよと言われてホッと安堵したり。
いろんな人の、いろんな気持ち。
それを迎える、巨大な余白。
どの色よりも鮮やかでブレない白に、
少しだけハッとして我にかえる。
あまりにも白い白は不安感や緊張感さえ与えるけれど、右端の黒い「ちょん」が句点にも見えて、緊張の糸が切れるような。
あの絵を見て、フッと呼吸ができ、一旦気持ちを横に置くことが出来た人がもしかしたら居たりして。
だったらすごいなー。なるほどなぁ。
と、ひとり勝手に納得し、検索も止めたのでした(いや多分考えすぎ笑。)。
「受け止められるだけの余白」は、
自分の心の中にもきっと必要。
(特に私はキャリア支援の仕事をしているので、尚のこと。元々仕事を引きずらないタイプですが、やはり自分の状態が悪いと良い支援は出来ません)
「心に余裕を」なんて言い古されて当たり前すぎる話だけど、自他を受け止められるだけの余白はやっぱりいつも意識したい。(因みに、「受け止める」は「受け入れる」とは違います。すべて受け入れる必要はありません)
対人関係だって、育児だって、片づけだってSNSだって、要はそこだと思うんです。
そんなことを、これからもたくさん生み出されるであろう娘の現代アートを眺める度に、これからも思い出すのだろうな。