いま理想を語らなくてどうする
大学時代、友人に「これからもいつも味方でいてよね?」と訊かれたことがある。
本来なら互いの友情を確かめ合う場面で、あろうことか私は「悪いけど、それは保証できない。だってお互いに言い切れないでしょ?」的な言葉で断った。
案の定、かなり引かれた(笑)。
でも当時の私は、「今この場」については自信を持って言えても、「この先いつもあなたの味方でいる」なんて不確実な約束は誰とも出来なかった。むしろ不誠実だと思った。
今ならその子の心細さも孤独も理解できるし、「どんな時も自分の元から去らないで居てくれるだろう人がいる安心感」は家族を築いて良く分かった。たぶん、私は単に「味方」という言葉に引っかかったんだなと今になって思う。
味方がいるなら敵がいる。
味方とは、美しい信頼関係を結び、助け合い、結託する。一方「敵」は相容れない者として遠ざけられ、攻撃して良い対象になる。
誰かを味方と識別した瞬間、自分の世界には敵も存在すると自覚することになる。
あの時、私はせめて、「あなたの世界には敵なんて居ない。恐れることなんてない」と言うべきだったかもしれない。
でも、相手が見ていた世界では違っていた。
私は2度、相手の真意をくみ取り損ねていた。
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私はきっととても恵まれていて、これまで「あの人は私の敵だ」と誰かを認識したことはなかった。嫌いだとか苦手だとかは感じても、決してその人を「攻撃してよい存在」とはみなさずに済んだ。この境遇には感謝しかない。
でも、この日本でも世界でも、「敵と味方」の構造で世界を見ている人は多いのだろうか。今この瞬間も理不尽な武力や暴力で抑圧されている人(そして抑圧する側にいる人)はもちろん、人種、思想、社会的地位、もしくは幼少期に過酷な体験を持つために人や世界を信頼できない人。
ネットで個人をたたく人も、同じような構図にいるのだろうか。
はたまた、日常の鬱憤を身近なところでただ晴らしているだけなのか。(TVでは富裕層のビジネスマンに多いというデータを見た。ビジネスでライバルたちに蹴落とされないように必死に体裁を保ち感情を抑え込むなどでストレスを溜め込んだ反動ではないか、と)
いや、ハンナ・アーレント(ナチスの全体主義について明確な回答をしたユダヤ人政治哲学者)が言ったように、何も考えず皆がそうしているから自分も便乗しただけなのか。 だとしたら私たちはまったく進歩していない。
(事実としての属性はアイデンティティに絡むので肯定したうえで、)
白人か黒人か、
自国民か他国民(移民)か、
健常者か障害者か、
愛国者か政府批判者か、
男性か女性か、宗教は何か、
コロナを気にしないか警戒するか、
自分と同じ立場や考えかどうか。
当然人によって色々違いはあるけれど、それは単なる事実であって
「敵」と「味方」を分ける材料ではあってほしくない。
世界に存在しているのは、敵か味方かの二言論じゃなくて、
多数決で決まるような「正義」でもなくて、
1人1人違う感じ方や考え方を持ちながら各々の善悪の規範の中で生きている、良心を持つ独立した個人だと、私は思いたい。
もういい加減、それを踏まえた上での、政治や経済や社会構造であってほしい。
武力も個人攻撃も黙認黙殺も、政治的利用も要らない。
「捕食目的以外で互いに傷付け殺し合うのは人間だけ。ケダモノよりよっぽどケダモノだ」的なセリフ(うろ覚え)が印象的だったのは、映画『寄生獣』。
「考えるのをやめたら、人間じゃなくなる」と言ったのは、ハンナ・アーレント。
そんなの理想論だと言われればそれまでだけど、いま理想を語らなくてどうする。
「差別をなくすために」とか「争いをなくすために」とか偉そうに語れるほどの知識も教養も経験も私には微塵もないけれど、
私達はケダモノのままか、
それとも脱却できるのか、
1人1人が真摯に考え、建設的な声を上げていかないといけないことだけはわかる。
さて。
今、あなたの世界に、味方はいますか。
敵は、いますか。
※政治に絡む問題は、多くのことを学ばないと何を書いても的外れだろうけれど、どうしても書きたかったので書きました。批判大歓迎です。